ひとり、静か。

あの日の記録

微睡みの中、どこからかの異音に促され、現実世界に引き戻される。

午前11時23分。

あまりの疲労に、ベッドに伏せたことも覚えていない。

のろのろと洗面所へ行き、顔を洗う。

ふと、その水の冷たさに違和感を覚え、窓越しに外を見る。

まるで吹雪かと思えるほどの雨が左へ右へ風の吹くままに流されている。

豪雨。まさにそれだった。

昨晩の予報では台風が上陸することを耳にはしていたが、それほど気にはしていなかったから

か、ここまでの荒天になっていることに、少しばかり動揺する。

と同時に、異音の正体に気づく。

あれは、iPhoneに届いた非常警報アラームだったのだ。

両手を腰に当て、いつの間にかベタな仁王立ちをしている自分がガラスに写っている。

それに気づき、何故か無意識に周りを気にしまう。自宅なのに、だ。

こんな場合でも、人の目を気にせざるを得ない自分の性分に自己嫌悪を抱くのだった。

今日は、本来休日であるが、逼迫する仕事の状況から今日もまた職場へ向かわなければならない。

再び洗面所へ行き、歯を磨き、頭を洗い、乾かす。

ドライヤーを手に髪をほぐしていると、遠くからなにやらベルの音が聞こえる。

小さいが高いベル音。

セット時間を間違えたスマホの目覚ましが鳴っているのだろうと高を括り、そのまま髪の乾燥を継続する。

しかし、次の瞬間ことの異変に気づく。

間近でドライヤーの轟音を耳にしているにもかかわらず、その向こうから届く音は、異常なほど大きくなければならない。

すぐさまドライヤーのスイッチをオフに入れる。

と同時に飛び込んでくるベルの音に思わず玄関から共用廊下に飛び出す。

それは、エレベーター近くにある火災警報器の音だった。

まさかと思い、周囲に目をやる。

左へ右へ、そして上階に下の階を手摺から身を乗り出しチェックするが、どこからも煙や炎の類は認められない。

警報ベルの原因がわからず、ただ、大雨に打たれずぶ濡れになっただけだった。

すぐ後ろにあるドアを開け、靴を脱ぐ。

そして、火事ではない安堵感の後に襲ってくる、それを遥かに凌ぐ焦燥感。

敢えて沈黙のまま、洗面所に向かい、雨に濡れた髪を、濡らす。

ドライヤーを手にして、ほんの数分前にとった行動と同じ手順を再び行うことは、思いの外虚しさに包まれることを知った。

呆然自失、というやつか。

そのまま、這々の体で準備を完了する。

スニーカーを履き、傘を手に再び、外へ出る。

このとき、まだベルは鳴り響いていたが、玄関のドアを開け、振り向きざまに施錠したタイミングでピタッとそれは止む。ミラクルとでも言うべきことに、さほど関心を抱かず、鍵を抜き、バッグにしのばせる。

そして気づく。

よくよく考えれば、この階の、その警報器だけが鳴動していることがそもそもおかしいのだ。

疑問が晴れぬままエレベーターホールに向かい、到着を待っていると、背後でドアの開く音がする。

それにつられるように振り返ると、25、6歳ほどの女性が立っている。

おそらくはパジャマなのだろう、鮮やかな赤一色の上下に身を包んでいた。

「鳴り止みましたね」

ずっと気になっていたベルが鳴り止んだところで、確認のためドアを開けたのだろう。

「そうみたいですね」

頷く彼女の顔には怪訝な表情を隠しきれず、ドキマギ感が前面に出ている。

その二言を交わし、何となくバツが悪くなり、彼女は自宅に、こちらはエレベーターへと移動する。

引越しして二年半になるが、初めて見た顔だった。

かくも共同住宅というものは、これほどに近所付き合いが薄いものなのかということを改めて感じる。

一階に着くと、管理人室の前で二人の住人らしき男性があたふたしていた。
警報ベルがその原因だろうか。

そういえば、上の方から聞き覚えのあるベル音がする。また鳴り始めたらしい。

「六階の警報ですか?」

そう問いかけるやいなや、初老の男性がこちらへ振り向く。

そして、その形相に一瞬怯む。

「また故障しとるんや!!!」

イライラをぶつけるが如くにこちらへ詰め寄ってくる。

「故障ですか?」

この質問には応えてくれず、管理人室内の警報盤に向かい、何やら操作をしている。二人であちらこちらを探り、どうにか警報を止めることに成功する。

よく考えればくだらない質問をしたものである。イライラを増長させたことに心のなかで謝罪しておこう。

二人は一仕事を終え、エレベーターに乗ろうと歩き出した瞬間、再び警報が鳴り響く。

なんでやねん、を言葉に出さずに顔で表せという問いに対する模範解答だ言っても過言ではないぐらいの、疑心暗鬼に侵された表情をしていた。

反射的にツッコミをいれそうになったが、全力でその衝動を抑えた自分を褒めた。

いつまでも付き合っている訳にもいかず、その場を離れることにする。

そして、マンションのエントランスの自動ドアを抜け、傘をさし、一歩踏み出そうとして前を向く。

同時に、眼前に広がる光景を目にし、立ち尽くす。

暴風雨という表現ではかわいいとおもうぐらいの水平に近い横殴りな豪雨。

徒歩五分の駅に行くだけで、びしょ濡れに、なることが容易に想像できる。

左手に持っていたiPhoneでJRの運行状況を確認すると、大和路線全域に渡り、運転を見合わせていることを知る。しかも、運転再開の目処が立っていないとのことだった。

担当している物件の締め切りが差し迫っていなければ、すぐにでも諦め、自宅待機の判断を下すのだが、それは出来ない。

今回は上司がヘルプに入ってくれることになっているから、行かない訳にはいかず途方に暮れる。

もしかすると駅に行けば何か詳しい情報が得られると期待し、一大決心をして、濡れる覚悟で歩を進める。

まぁ、予想通りの展開で、ものの1分も経たない内に、彼らはこの下半身をずぶ濡れにする。

人間、不思議なことに、少しだけ濡れることにはかなりの嫌悪感を感じるものだが、このレベルまで濡れた場合、どうでもよくなるのはなぜだろうか。どちらかと言えば、もっと濡れてしまえば良い的な感情が湧いてくる。

などと、どうでも良いことほど、大事なときにふと考えてしまうのもまた人間だ。

そして、なんとか駅に着く。

エスカレーターで上がり、改札の前まで来ると、そこは、土曜の朝にはありえない光景が広がっていた。しかし、予想通りの光景でもあった。

人混みをかき分け、駅員から振替輸送の切符をもらい、バスでその駅に向かうことにする。

再び傘をさし、コンコースから外部へ一歩踏み出して、2度目の焦燥感がこみ上げる。

一粒も雨が降っていない。

先ほどまでの天候はなんだったのだろうかと、責めても仕方のない相手にツッコむのだった。

静かに傘を閉じ、コンビニ前を通り抜けようとして、横目に入る店先のガラス窓が気になり立ち止まり、近づく。

そのに映っていたのは、セットしたはずの髪が、ボサボサという言葉では不十分なぐらいの荒れた髪型をする自分だった。

無造作ヘアーだと主張するにはトリッキー過ぎる様相だった。

久しぶりの長時間の睡魔を警報アラームで邪魔され、短時間に2度も同じ作業を強いられ、挙げ句の果てには見るも無残な姿に変貌させられたのは、どれもこれも元をたどれば、今、上空にいるであろう台風なのだ。

行き場のない苛立ちを抑えつつ、職場へ向かうしかなかった。

ふと思う。

思い通りにならないことばかりの世の中は、得てして、こういうことの連続ではないだろうか。

主観で観ると、その全てが自分にとって不都合であるように思えるが、その側面から観た景色はそうではなく、そこに何の悪意もない。

自己中心的に理由をつけ、自ら飛び込んだ小さな世界に対し、なんでやねんの連続をただただ訴えているだけではないだろうか。

常々発するツッコミこそ、もしかすると、内側から滲み出る自分以外の全てへの押し付けではないだろうか。

今の自分を形成する全部を否定しかねないところまで行き着くかも知れない恐怖を感じ、今はそっと心の奥へしまっておくことにする。

いつかまた、ひょこっと顔を出したときにでも、向き合ってみようか。

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