祖父の遺産

あの日の記録

中学に進学した4月の終わり。


祖父が亡くなった。


75才だった。

本当に真面目で、面白くて、人情に厚い人だった。

当時の自分ではその全部を理解し、学ぼうという姿勢にはなれなかったが、今思い返すと、大きな影響を受けていたのだと確信する。

この年は戦後70年という節目であり、その日はその終戦の日。

自分が生まれるずっと前に起きた、日本と諸外国の大きな負の遺産を忘れずにいようとする、大切な日でもある。

そして、いつも思い出す。

戦争時、祖父の下へも例によって召集令状、いわゆる【赤紙】が手元に届き、戦地へ赴くことになったらしい。

近所の人たちに見送られ、帝国軍の一員として、戦地へと送られた。

しかし、ほどなくして祖父は家へと戻ってきたのだった。

理由は、身長が規定の高さに達しなかたったからだった。

祖父は笑いながらその話をしてくれたのを覚えている。

当時の自分は、それにつられ笑いながら聞いたものだ。

だが、もし祖父がもう少し身長が高く、帝国軍兵士として戦地へ赴いていたとしたら、戦死していたかも知れない。

だとすれば、父はこの世に生を享けることはなかった。


ということは、自分もまたこの世に存在しないかったのかもしれない。

そう考えれば、今、ここに居ることの不思議さを痛感せずにはいられないのだ。

これだけを見れば特別なことのように考えられるが、実はそうではない。

祖父の両親、そのまた父母、そしてまたその先の祖先の全て、何より、父と母がその人生を生きてくれたからこその、自分の今、があるのだ。

だから、生きようと思う。

戦争を直接知らない世代として出来ることは、知ることと、理解すること。

そして、それを繰り返さないことだ。

ある夏、母と、母方の墓参りに行った帰り、あるサービスエリアに寄った。片道四時間を連続運転するのは難しく、小休止する為だった。

一息つき、奈良へ向かって再出発しようと、車を出そうとしたとき、右手から車が走ってきた。通り過ぎるのを待とうとして、ブレーキペダルに足を置くと、その車が手前で停止した。

こちらが出るのを待ってくれているようだった。会釈をし、アクセルに足を当てる。そして、ゆっくりと車を走らせた。

『譲ってもらえると、自分もまたゆずりたくなるよね』

母が隣でつぶやく。

そうなのだ。

もし、世界中の人々が自分より優先し、他の人へ譲るようにしていけば、この世から絶対に戦争はなくなる。

世界が平和になるように。

それは誰もが願っていることだ。

しかし、願っているだけでは、日常にかまけ、自分の生活を守るため、つい、自分を優先してしまうのだろう。

大切なのは、願いを行動に移すことだ。

大きなことをする必要はない。

足元の行動が大切だ。

まずは、自分から、具体的な行動を起こす。

身近な争いや諍いを無くさないで、世界に平和は訪れない。

母が言った。

『なぜ、世間は、自分のことを地球人と言わないのかねぇ・・・』と。

それを聞いて、気づかされる。

自分は日本人、自分は男性、自分は社会人、などと自ら他との違いを言葉に乗せ、争いの原因を作り出していたのかも知れない。

本来、その日は友人との約束で1日出かける予定だった。

しかし、友人が夏風邪をこじらせ、キャンセルされた。

だが、そのおかげで、今とこれまでを振り返る機縁を頂けた。

それさえも、奇妙だが、必然であったのかも知れない。

自分は地球人なのだ。
この地球に生きるか同朋と共に、それぞれのフィールドで一所懸命に生きる。お互いにそれを尊び、理解する。

ただそれだけで、必ず変わる。

自分も、そしてこの世界も。

コメント

タイトルとURLをコピーしました